箱根旧街道江戸時代(えどじだい)に入ると、徳川幕府(とくがわばくふ)はまず五街道(ごかいどう)の整備(せいび)を行(おこな)いました。その一つが東海道(とうかいどう)で、中でも箱根越(はこねご)えのいわゆる「箱根八里(はこねはちり)」は東海道中(とうかいどうちゅう)最(もっと)も難所(なんしょ)でした。
 
江戸時代(えどじだい)の東海道(とうかいどう)は、それまでの湯坂道(ゆさかみち)と違(ちが)い、須雲川(すくもがわ)に沿って畑宿(はたじゅく)などを通るルートになりました。この道には並木(なみき)が植(う)えられ、一里(いちり:注1)毎(ごと)に「一里塚(いちりづか)」が築(きず)かれました。
また急坂(きゅうさか)が続(つづ)くこともあり、道には石畳(いしだたみ)が敷(し)かれました。これらは現在(げんざい)でも一部(いちぶ)残(のこ)されていて当時の面影(おもかげ)をしのぶことができます。
 
また芦ノ湖畔(あしのこはん)には箱根関所(はこねせきしょ)が設(もう)けられ、となりには箱根宿(はこねじゅく)も開(ひら)かれました。関所(せきしょ)は「入り鉄砲(いりてっぽう:注2)に出女(でおんな:注3)」を取(と)り締(し)まりましたが、箱根(はこね)では「入(い)り鉄砲(てっぽう)」は調(しら)べず、「出女(でおんな」」を厳(きび)しく取(と)り締(し)まりました。
 
女性(じょせい)は地元(じもと)の女性(じょせい)であっても「関所手形(せきしょてがた)」がないと関所(せきしょ)を通(とお)れず、取(と)り調(しら)べも厳(きび)しいものでした。手形(てがた)がないばっかりに関所(せきしょ)を抜けて通ろうとする「関所破(せきしょやぶ)り」は死刑(しけい)で、とても重(おも)い罪(つみ)でした。
 

(注1)一里(いちり)
約4Km。


(注2)入(い)り鉄砲(てっぽう)
江戸(えど)に入(はい)ってくる鉄砲(てっぽう)。江戸(えど)に武器(ぶき)が持(も)ちこまれないようと特(とく)に注意(ちゅうい)して取(と)り締(し)まりが行(おこ)なわれた。


(注3)出女(でおんな)
江戸(えど)から出(で)ていく女性(じょせい)。江戸(えど)に人質(ひとじち)として住(す)まわせた大名(だいみょう)の家族(かぞく)の女性(じょせい)が逃(に)げ出(だ)さないように取(と)り締(し)まりが行(おこ)なわれた。